昭和43年1月18日 月次祭
中村良一
(言葉が早く、分かり難いところが多い)
神の一言は、千両の金にも替えられん。有難く頂いて帰れば、船にも、車にも積めぬほどの神徳があると。神の一言は、千両の金にも替えられん。有難く、頂いて帰れば、おかげは、船にも、車にも積めぬほどの神徳があると。ここんところを一つ、頂かねばなりませんね。おかげがあるだけじゃない。おかげは、船にも車にも積めぬほどの神徳を頂いて帰らなきゃならない。神の一言。ほんなら、神の一言とは、どういう意味の事だろう。そこんところから、検討して行かなきゃならないものですね。
先ほど、お風呂を頂いております時に、秋永先生、久富先生、私と三人で入って。久富先生と秋永先生が、何か話しておられますけれども、耳が遠いのと、風呂の中の、こうあれで、よく聞き取れないのですけれども。まぁところどころ聞いたんです。それに、久富さんが、誰かを、今朝から、お取次なさったときの事らしいですね。誰かが、誰々さんと言いよりなさるけども、分かりませんでした。今日、誰々さんが、お取次を頂いて、今日は、宮の陣教会で、筑水連合会の信徒会の教励会があります。それで、上野先生が当番である。こっからも、沢山、おかげ頂かんならん。私も、実は、おかげ頂いたいと思いよったけれども。ある事で出来なくなった。だから、その事を、親先生にお届けしてから、今日、行かれない事をお届けしようと思いましたら。親先生が、先に、今日はあの、何々さん、宮の陣ばいと。と言うて、その一言で、私の腹が決まりましたと、こう言うておる。私はあの、神の一言とは、そういう風に頂くことだと、こう思うんです。実は、こげな事情もあります。こげな訳で、今日は、共励会に参加できません。ですから、これは、何処までも、私は、自分を中心にした考え方なんです。だから、神の一言というたらです。それは、誰が、何と言うてもです。どのような場合でありましても、どのような、例えば、そこに障害がありましても。神の一言だけ頂いたら、それを、私は、頂き止めて行くという事。(もう祈りはしよりしませんでした。?)
今日、あちらに、おかげを頂いた事があろうと思いますが。そういう、私は、あり方に、こちらがならせて頂くという事がですね。神の一言を、本当に、神の一言として、受けて行ったんだと。確かに、そこには、船にも車にも積めんほどの神徳がある。なぜって、自分を空しゅうして頂いたんです。信心はね、自分を空しゅうして行かなければいけません。自分を無くして、なかなか、そこが難しい。
先ほど、夜のお月次祭が、八時から、今までは、八時半でございましたですね。八時からになりました。そして、(明神?)様へ、ご挨拶がございます。そして、若い先生方が立って、十分、十五分間、お話を致します。続いて、お祭りがございます訳でございます。先日、この十三日会がございました。この十三日会の性格というのは、まぁいうなら、ここのお広前で、一番権威を持った会である。それは、なぜかと言うと、私という事を無視した会なんです。せめてこの、十三日会だけは、神様の願いに応えまつる一日でありたい。せめて、今日一日だけは、神様に、お喜び頂けれる一日でありたい。そういう願いの者がです。誘い合わせもしないのに、段々、おかげを頂きまして、現在、三、四十名ずつぐらい集まります。いうならば、真の信心を求めての集いでならなければならんのでございますけれども。なかなかそこが、そうは参りませんけれども、神様の願いに応えまつる。神様に喜んで頂く。せめて、この十三日だけは、そういう一日でありたい。前々、毎月、御本部へ月参りをしておりました。その月参りが、ある事情で出来なくなった。本当にもう、実に残念なことであった。大げさに言うなら、そういう、なぜ参られるのか。本当に、それを言うと、血がにじむような思いで、みんなが、その事を考えた時代がございました。ですから、その御本部参拝させて頂いておると思もや、一日ぐらいは多いのである。お参りさせて頂いたと思もや、その旅費ぐらいお供え出来ん事はないといった様な事からが、十三日会の発端でございました。ですから、そういう願いを持って集まられる。そして、何時も、信心の共励があり、信心の発表がございます。
ところがです、ここの、初の十三日会であるというのに、とにかく、中止致しました事は、時間の観念が、お互いに、余りにもなさ過ぎるという事であった。その時、十三日会の御理解が、どういう御理解であったかと言うとですね。十三日会の願いとするもの、十三日会に出席する、信心を求めようとする、その願いである、そういう信心がです。信心の、全ての信心の基盤にになるものだという事。これは、合楽だけではない、教団全体を上げてです。今、私共が、十三日会で、本当に、神様の心に添い奉りたいという願いを立てての信心の稽古がです。教団全体の信心の、基盤にならなければならない、というほどに、神様は、期待をかけておられる会でございます。その十三日会が、いうならば、十三日会だから、十三時からという事になった。一時からなんです。その十三時からが、三は三が着いておるけれども、もう必ず三時から二時間遅れました。こういう事ではいけないから、まず、ここから改まろうではないかというのが。もう、十三日会のですね、始めから、最後まで、その事のお話でございました。これは、十三日会だけの事ではありません。お互いが、あらゆる、信心だけの事じゃありません。どのような場合でも、私は、この時間を大切にする。一人が、大切にせん為にです。ほんなら、一時なら、一時に来ておる人が、二時間も待たなければならない。まず、この、きちっとした信心。そこに、きちっとしたおかげが現れると言われておりますがです。そういうところから、一つ、合楽全体の者がおかげを頂かなければならない、というほどにです。十三日会では、その時間の事が検討されましたような事でございますから。
皆さんとてもです。そうした神様ごとでございますからね。八時からの、いわば、御祈念する。八時からの、月次祭をです。皆さんが、本当に、そこんところをですね。私は、今日、思わせて貰ったんですけれども。一心とはね、どういう事かと。一心を立てる、一心を立てる。大変難しいようにありますけれどもです。一心とは、例えば、汽車に乗ります時にですね。八時十分に乗らなければならないならばです。八時十分に乗らなければです、行かなければです。もう、それに乗り遅れるんです。だから、八時なら八時に、遅くとも、八時までに行っとかなければ、八時十分の汽車に乗り遅れるから、八時十分、八時時十分と、その事をですね、思い続けて、それを実行する事が、私は、一心だと思います。そすと皆さん、一心が、皆さん、ない事が分かるでしょう。私はですね、その、信心の基盤になるもの。ですからですね。ですから、そりゃ、場合によっては、乗り遅れても仕方がないような事情もございましょうけれどもです。今日は、お月次祭だと。八時の汽車に乗り遅れんようにという様な、そういう思いがです。また、それに、馳せ参じることが、一心だという事である。そういうこれは、全ての事がそうなんです。教えなら、教えを頂かせて頂いて、この教えを、自分の心からはずさない。八時十分には乗り遅れてはならん。八時十分には、八時には、八時にはというように、その教えというものがです。神の一言が、これに貫かせて頂いて、はじめて、私は、真の信心が出来ると、こう思う。寝ても覚めても、その事が、心から離れない。もし間違えたら乗り遅れる。そういう気持ちなんです、一心とは。ですから、さほど難しい事じゃないでしょうが。今日は、八時の汽車に乗らせて頂く。いうなら、その前に、例えば、遠いならば、場合によっては、六時半からでも、七時からでも出てこなければならないという事が分かります。これがやはり、基盤なのです。十三日会で取り上げたのも、それでした。そういうところを、皆さん、一つ、本気にならせて頂いて頂くいて頂く事、それが一心。
私は、その、神の一言は、千両の金にも替えられない。有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ神徳があるのである。その、本当にその、おかげおかげは、船にも車にも積めぬ神徳を頂いて帰る。お参りしたたんべんに頂いて帰る。お月次祭の時にも、それを頂いて帰る。それを、汽車に乗る時には、時間に間に合う様なというような思いで、それを行ずる、それが信心。それが一心なんだ。
今日は、八時の、御霊様のお祭りを終わってからの、( ? )の話を、今日は、私の二番目の息子であります、光昭が、今、高校生です、お話をさせて頂きました。もう、お話という事ではございませんでしたけれども。本当に、一言でも良いじゃないかと言うて、若先生が、風呂の中で言いよりました。何でもいい。お前どもが、一生懸命修行しよる事を、何でもいいじゃないか。それでも、みんな、聞いて貰える。自分で話すと思うな。親先生の信心におすがりして、一言でも言わせてもらえば、それで良いと言うてから、その、ちゅうちょしておりましたけれどもですね。それこそ、神の一言。そして、まぁ、受けた訳でございます。そして、前にお参りになった方は、お聞きになったように、昨日、ここへ出て参りましてから、今朝がたから、先生、こういう様なお夢を頂いたというのです。もうその、自分の周囲に、蛙がいっぱいおる。びきの事です。どういう様なお知らせであろうかと。それは、皆さんも、ご承知の方もあろう、ご承知でない方も、・・私は、この世に、怖いものはなかですけれどもですね。あの、びきだけは怖い。もう特にあの、一番上ですから、がまです。もうがまが家の中にいるなら、通りは切らんです私は。体が縮んでしまう。おかげで、この頃はですね。それを、怖くないというか、ここにやっぱ、上がってくるんです、時々。それで、じっと私が、度胸を据えてから見るんですよね。その、なかなか見よると、その、何ていうですか、可愛らしい顔をしてるんですよね。けれども、ぱっと、とっさに出てこられたら、はっと、声出すぐらいにあるんです。あん、たんがらけどんがあがっとるなら、もう、せいせい、えすか、私は。本当です。もう本当に、私は、(身の疲れなかばってん、?)これだけは、もう、きらいというか、怖いというかですね。もう、いよいよ、虫が好かんとですね。だから、これは、何時もお父さんが言うように、お父さんが、一番嫌いなもの、怖いものは、蛙だと私は言う。光昭、お前の心の中に、のう、蛙やら、いわば、がまんごたるもんが、住んどらせんかと。もう、ここでね、ここで、親先生に嫌われたら、もうお終いぞと、私が申しました。ここで、私に嫌われたら、もうお終いぞと。そこで、私の心の中に、光昭の心の中にです。こげなことは、親先生がお嫌いじゃろ、こんなことは、自分がほんに、こういう事、ここの事が、親先生が夢に見なさるなら、びっくりして、驚きなさるじゃろうといったような心を、自分の心の中に発見して、その一匹、一匹、取り除かせて頂くという事をです、これからの、お前の信心にしなければならんぞ、今、一生懸命の修行が出来とるのだから。その一生懸命の修行の時に、本気で、それを取り除く事に改まっていけという、ご理解を頂いた事、それだけを話しました。皆さんに聞いて貰った。本当に激しゅう、本当に、今、僅かな事でしたけれども、みんなが、ここへ出てきて、お礼を言われる。
大体あの、楽をしております、初枝さんが、母親の具合が悪い事のお届けがあった。先生、今日、光昭さんのお話を頂きよってからです。本当に、ただ、母親の病気の事を願うだけの事じゃいけん事が分かりました。私の心の中に、いよいよ、蛙が住んでる。この蛙を、一匹、一匹、本気で取り除かして頂いて、その事を、いわゆるその、おかげ下さいと言う代わりにです。これを改まらせて頂いて、こら、お願せねばいけない事が分かったというて、改めてお願をし直しました。久保山さんが出て見えました。( ? )その、いわば、光昭が言うた、たったお話にもならないほどの、たった一口の、その事をです。そうだなぁ、いわゆる、神の一言として頂いたら、それは、それが成就する事になったなら、確かに、有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳になる事を、皆さんが、体験されるであろうと思うのでございます。
最近、寒修行が、この六日から、この二月の四日まで続けられます。一月間、全教を上げての寒修行でございます。私も、本当に、異常なまでに、皆さんが熱烈であるのに驚きました。こりゃもう、本当に、ぐずぐずしてはおれんなと思いました。皆さんが、日曜なんかは、やっぱり、百人ぐらい集まります、朝の御祈念に。そして、私が、四時半に、ここに出て参りますと、もうここに、皆さんが詰め寄せておられます。もう、御祈念が始まる頃には、半分ぐらい並んでおります。という様にですね、本気で、寒修行に取り組んでおります。まだ、知って無い人もあろう、知っておっても、踏ん切りがつかんでおる人はです、まだ、後、二週間ほどある訳でございますから、どうでも一つ、そういう、教会的、一つの修行、打って一丸になっての修行に参加される事をお勧めいたします。あのですね、いいえ、私は、家で修行しよります。もう、寒修行と思うて修行しよります。それは、絶対、寒修行になりませんです、皆さん。寒修行は、やっぱり、お広前に出て、でなければ、寒修行になりません。その訳は、まだ、いろいろございますけれどもです。とにかく、出て来てみなけりゃ分からん。なるほど、寒修行というのは、この雰囲気に触れなければ、寒修行という事になってこないなということなんでございます。その、昨日の朝、それから、夕べ、それから、今朝、私の御理解を頂いておりましてもです、昨日、(?)でございますけれども、ようとこう、関連性があるんですね。ですから、朝だけ頂いたんじゃ、やっぱり、その、杭が抜けたような感じがする。そら、それだけ、あの、御理解になっとりますけれどもです。こう繋いでみますと、今は、だから、御理解も長い。もう、何時も、六時十五分ぐらいに終わるのですけれども、今は、体の御都合でしょうね、立ちます、必ず、六時です。ですから、十五分間は、余計にお話が頂けるといったような感じ。ですから、六時半ぐらいまでございますからね。本当に、その御理解を、寒修行として、そこに、一生懸命の思いで頂かせて貰うて、それを、本気で、信心が分かるという事だけではなくて。それを、いよいよ、自分の信心の、血に肉に、いよいよ、有難く頂いて帰って、船にも車にも、それぞれの神徳に、お互い、して行かなければいけません。
昨日、朝の御理解、ね。こういう御理解を頂きましたんです。絶対、自力の、絶対他力と頂きました。お道の信心はこれだ、という御理解だった。私は、これは、仏教から出ておる言葉でございますから、仏教的に、自力とか、他力という言葉は、よく知りません。けれども、まぁその、自力という字から、まぁ、私共の想像です。に、これは、お話をしておるのでございますから、本当の意味での、自力他力、他力本願といった様な事とは、意味が違うかもしれませんけれども。私は、私なりに、それを頂いてから、皆さんに、聞いて頂いたんです。これは、絶対自力の、絶対他力でなからなければならない。金光様のご信心は。絶対自力というのは、私は、こういう風に解釈致しております。例えば、(?)さんから、もちろん、お取次を頂いて、お願いをする。どうぞ、お参りが出来ます様に。だから、これが、絶対他力であるならばですね、はぁ、お願をしとるから、神様が、ちゃんともう、四時半なら四時半に起こして下さるじゃろう。それだけではいけんのです。やっぱり、本気で、夜中にですね、何べんでん、おぞまして頂くくらいな、一生懸命参りよるです。一生懸命にすると、そうでしょうが。枕に、どれだけ(?)致しましてもです。は、二時に目が覚めた、三時に目が覚めた。そういう、例えば、一生懸命のものが、それを、私は、自力と思う。そして、ほんなら、時間になったからというて、やっぱり、まだ眠たい。けれども、床を蹴って起き上がる。冷たい中に、やっぱ、水行する人は水行する。顔を洗う人は顔を洗う。やっぱり、床の中には入るっとった方が、ぬくぬくと、気分がいい。気持ちがいい。けれども、そこをやってのけるのがです、やはり、自力なんです。私は、その事を、寒修行の始まる、一番初めに申しました。そうして、皆さんが、一月なら一月間を、いわば、その寒修行をさせて頂く。そうして、一月後に、分からせて頂く事はです。なるほど、一生懸命、いわゆる、自力で、ある場合は、我力とまで思われるような、ね。ある婦人の方が、お届けを、今しておられますがね。ご主人が、非常に反対をされる。それでも、やっぱり、参ってくる。もう最近な、ご主人が、勤めから帰ったっちゃ、物も言いなさらん。ずーっと、腹かいてござる。もう本当に、そのために家庭が、こうして、不和になるごたるならば、もういっそこのまま、中断しようかと思うたら、娘が、高校に行っております自転車で行っております娘さんが。お母さん、ここが頑張りどこばい。お父さんの事は考えなさるな。ここが頑張りどこよと。なしや、悪かとこへばし通いよるごと。こうして、一生懸命、家族中の者の事をお願いに行きよるとじゃから。お母さん、ここでへこたれちゃと、娘に言われてから、頑張ってお参りしてきております。なるほど、そういう説明ですね。家庭の者に、コリをつませちゃならん。やっぱり、円満にいかにゃならん。やっぱ、何時まで経っても、(?)にならない。そこんところを、抜け駆けするようにしてからお参りをしてくる。これは、やっぱり、ある場合では、我力とまで思われた、これは。自力というよりも、まぁ本当に、うちの家内ばっかりは、我が強い。俺の言う事も聞かんと、ご主人は思うておられるに違いはない。信心するものが、そげなこっじゃ、主人の言う事も聞かんで良いかという思いが、もう、言うたっちゃ聞かんから、向こうが、ボーっとしてござる状態と思うた。けれども、これが、本当に、お前が信心しておってくれたおかげでという様なおかげを頂かせて頂くためにも、ここは、やっぱり、我力と思われるけれども、そこんところを、やっぱ、やり抜かにゃいけん訳です。そして、ほんなら、一月なら一月終わってみて、分からせて頂く事はです、あれは我力でもなかった、自力でもなかった。神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではなかったと分かった。自分が参ったと思いよったけれども、神様から、許されて参ってきておったんだと。神様に許されて、目が覚めたんだと。目が覚めていなかったなら、今頃は、冷とうなって( ? )。目を覚まさせて頂くのも、歩かせて頂いたのも、お参りをさせて頂いたのも、みんな、神様のおかげを頂かなければと、こういうのである。
四神様がその事をです、二代金光様は、おかげは、神から出ると思うな。氏子の心からぞと仰った。これは、自力の、絶対自力を教えておられるですね。神様から、おかげは下さるのじゃない。お前の心の中からぞと。お前の一生懸命の心から、錬りだしてくる、出てくるのだと、おかげというものは。かと言うと、ほんなら、教祖の神様は、どういう風に教えておられるかと言うと。障子一重がままならぬ人の道ぞと教えておられる。自分には、なーにも力が無い。いよいよ、自分、我無力であるという事が分からせて頂いて。本当に、神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸が動かれない私達であるという事の自覚を促しておられるのです。障子一重がままならぬ人の身ぞ。そういう様な事が、分からせて頂く。絶対自力の、絶対他力。ですから、この絶対自力というところをです、金光様のご信心は、本気で、修行と思うて、自力、我力とまで思われるような、それをです。私は、行じた後に、金光様のご信心が、本当に分かるのだとこう思う。いわゆる、他力の信心という事が分かるのです。有難いですね。
久留米の岡崎さん、今日、私、聞かせて頂いたんですけれども。その、(?)じゃないけども、他の方がです。あちらは、何時も、月次祭たんびに、鯉のお供えをなさる。誰じゃったか、あ、佐田さんの奥さんじゃったか。本当に、あの方の信心を、そりゃまぁだ、信心が出来よるとじゃ、まだ人間も、皆さんより、ずっと若い。けれども、この月次祭、何かという時に、もう、これだけは、絶対、鯉のお供えをさせて頂きたいと思うて、願うておりますとです。何時も、お繰り合わせ頂くけれどもです、場合にはですね、もう、これば買わんなんばってんというて、一回もない時がある。けども、こういう時を、大事にさせて頂いて、私は、鯉のお供えをさせ続けてきたというて、話されたという事を聞いてですね。佐田さんが、感心しておられました。なるほど、それで、ああいう信心が生まれるのだなぁと。これは昨日、本人が来ての話しです。絶対自力の絶対他力。これは、岡崎さんが頂かれた御理解だったんです、大体。御神米に、お書き下げ頂きました。絶対自力の絶対他力という。
先生、最近、私、あの、お商売をしておられますがですね。その、どうぞ、商売が繁盛致しますように。どうぞ、商売の、いわゆる、集金に参りますから、集金が、都合よう寄りますようにという願いを、せんで済むようになりました。ね。どげなこつじゃろうか。ほんなら、(?)ながら、私は思うた。そしたら、こういう風に言われるんです。私は、先生、最近ですね、この、卸元ですね、卸元の方へですね。スムーズに、不届きのないよう、不行き届きのないようなですね、支払いが、どうぞ出来ますようにという事だけを願いますと、こういう。私は、それを聞いてから、はぁ、素晴らしいなと思うたんです。どうぞ、集金に行きますけん、先方の方にも、お繰り合わせを頂かにゃ出来んから、先方が、どうぞ、お繰り合わせを頂きますようにというてお願い、まぁ、これが普通ですね。ただ、取るだけじゃいけん。向こうも、やっぱ、おかげ頂かにゃいかん。けども、そういう事はお願いはせん。何かにつけて、支払いをさせて貰う、その支払いがです、滞りなく、スムーズに出来ますようにとだけ願わせて頂きます。
最近、私が、分からせて頂く事はです。親先生が仰るように、何事も神様の御物であると言われるけれども、例えば、お金ならお金でも、先生、半分ぐらいは、神様の御物であるという事が、実感として分かるようになりました。一万円の金があるなら、半分は、神様の御物、半分は、自分が、まぁだ、自分のもの、自分が働いて頂いたものといった様な感じであります。その結果がです、そういう事になってきてるんです。その事を聞かせて貰うてです。皆さんが、はぁ、ほんにそうですね。もう、支払いさえ出来りゃ、もう本当に良かつですね。その代わり、二月も、三月も滞っているところがある。例えばその、貰われんという。けれども、それが、無理を言わんで済むちいう訳ですね。神様が、必要なだけは集めて下さる。必要なだけは、支払いに事欠かんように、おかげを下さるから、という、その、信心が生まれてきておる訳です。信心の境地がですね、心が、こういう風に、飛躍して行くという事が信心なんです。信心が育って行きよるんです。そういう様な御理解ですね。
そしたら、昨日の夜の御理解になって参りますとですね。絶対自力の、絶対他力というものはですね、それは、本当の意味での、根底的信心ではない。それは、一つの過程なんだという事。道すがらなんだ。皆さん一つ、自力で我力で頑張らにゃいかん。そこに、他力を悟らにゃいけません。いや、それで、もう、自力と他力が一つになったんだから、終えたかというと、そうじゃない。いわゆる、お道の信心は、自力でもなからなければ、他力でもないという信心なんです。そんなら、どういう様な信心かと。皆さん、どういう風に思われますか。そんなら、金光様の信心は、一つ、(?)じゃろうか。
鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木の相が鳴る。これは、どどいつの文句でしょうか。鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、撞木というのは、鐘つき堂に、こう架かってるでしょう、こう突くやつ。あれを撞木という。釣り鐘、釣り鐘が鳴るのでもない。撞木が鳴るのでもない。いわゆるその、鐘と撞木の相がなるのだという訳なんです。金光様の信心は、これなんだ。よく、久富繁雄湾が、お話の中に言われるようにですね。お野菜一本作らせて頂くでも、今までは、我力で、自分が、私が、種を蒔いて、私が作りよったと、こういうのである。信心させて頂くようになったらです。もう本当に、天地の親神様のおかげを頂かなければ、野菜一本作る事は出来ない。種が芽を切るというだけでも、神様の働きを頂かなければ出来ない。神様のおかげで、このような見事なお野菜が出来ました。もう神様の、あなたのおかげで出来ました。いわゆる、他力を感じておられる訳ですね。そしたら、神様が、どう言わっしゃるかというと、何のこつじゃろうかい、久富さん。あんたが種を蒔いたり、肥料を施したり、草を取ったり、水が出来たら、水を取ったりさせて頂いたからこそ、こういう素晴らしいお野菜が出来たんだと。あんたの、いわば、一生懸命の努力が、こういうものを生み出したんだと神様が言いなさった。いいえ、とてもとても、私が、幾ら草を取っても、私が、幾ら、肥料を施しましても、とてもとても、このような見事なお野菜が出来る事はありません。あなたのおかげを頂かなければ、出来る事じゃないと言うてです。いいや、あなたのおかげで、いいや、お前達のおかげでという様なものが、そこから生まれてくるものが、お道の信心なんです。これが、お道の信心の、いよいよの、私は信心。いわゆる、そこを、あいよかけよと、こう仰る。
親の事は子が頼み、子の事は親が頼み。天地(あまつち)のごとあります。天地の様なものである。その天地の働きが、上と下との働きがなからなければ、良いものは生まれてこないのだと。如何に、天地金の神だというて、威張ったところで、氏子が、神を神とさせてくれなきゃ、さっき、秋永先生の話の中にありましたですね。神を神とさせてくれなかったら、神としての、天にもです、(?)地もです、働きもです、現わす事が出来ないのが、天地金の神だという事。それを、分からせてくれたのが、教祖生神金光大神ぞという事なんです。それを頂くのが、氏子、私共なのであるという事。金光大神のお取次によってです。天地の親神様のご恩徳を分からせて頂いて、はぁ、ここに親神様がござった、親様がござった。私どもの命の親であるところの、天地の親神様との面会が出来たところに信心が始まる。そして、あなたのおかげで、あなたのおかげで。いわゆる、あいよかけよで、立ち行く道が、ここから、開かれてくる訳でございます。
そして、今朝の御理解になるのでございますけれども、時間がないようですからね。今朝の御理解は、また、テープでも、皆さん、聞いて下さい。これが、夕べの御理解でした。という様にですね。御理解というものは、なるほど、これも、日田の人達が言われるようにですね。夕べは、夜の御祈念だけにお参りさせて頂いて、朝の御祈念を、ご無礼しておったけれども、朝の御祈念でお参りさせて頂くという事が、いよいよ、有難い事が分かって来た。からというて、夜の御祈念は、また、楽しゅうて、お参りしなければおられない。朝の清々しさを身につけて、その、清々しさを持って、御用に携わらせて、今日も、一生懸命、忙しい、忙しいというなかに、お使い回しを頂いて、本当に、今日も、無事息災。御用のお使い回しを頂いて有難いという、その心がです。夜の御祈念に持ち込まれる。いわゆる、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さという事になってくる。夜はもう、それが、楽しゅうてたまらん。ここに、私は、本当の意味での、信心生活というのがあるとこう思う。そういう、信心をです、お互いが、身につけて行かなければならない。ために、皆さんが一つ、自力と思われても良し、我力であると思うても良いから。どうでもこうでもという、その、絶対自力である。もう、絶対自力なんです。金光様のご信心は絶対自力だと思い込んで、その自力の信心をさせて頂くところから、朝のお参りも出来る。いうならば、一生懸命になら、夜の御祈念でもお参りが出来る。そういう、私はですね、信心をさせて頂いて。なるほど、他力の信心である事を、十分分からせて貰い。一生懸命にならなきゃという自力を、他力を、そして、絶対自力、絶対他力、他力でも自力でもない、お道の信心は、その相中から生まれてくるもの。いわゆる、神様のおかげで、神様のおかげでお参りが出来るのである。みんな、お前達が、一生懸命になるけん、なったとこから生まれてくるのぞという事になってくるようなおかげをです。お互いが、頂きたいものだと思うのでございます。
どうぞ、さきほど、須田先生が仰っておられます、ここの、推進委員会が主になりまして、今度、須田先生をお招きする事になる。本当にあの、まぁ、いうならば、合楽のゴヒレイである。ですから、私共は、そうした、まぁいうなら、大変、おかげを受けた方なんです。おかげの面におきましても。それから、それこそ、自力と他力を、もう、一つを、実際に、現に現わしておられる方なんです。もう、それこそ、朝の三時五十分の、金光様のお出ましを、何十年間という間ですね、あの、ここは、須田博士がお迎えされるところと、場が決まっておるくらいにですね。あの、教徒社の前で、必ず、ご夫婦で、金光様のお出ましを拝まれるようになって、もう、それこそ、信心を始められて、初めて、この事なんかが、さきほどの話じゃないですけれども、奥さんが、一生懸命信心なさるからですね。それをもう、いよいよ、もう、叩き壊してやろう。いっちょ、金光様ば、見げ行こうと言うて、見に見えたのが始まりでした。ところが、金光様がですね。本当に、こうやって、見せられたそうです。も、それでもう、彼は、一縮みなってしもうてですね、逃げるというなら逃げてやろうという態度を取られたそうです。もう、それから、金光さんのご信心に、いよいよ、打ち込まれて、そりゃもう、最高の、あの皆さん、すぐを発明なさった方なんです。まぁ、大変な、高学の権威であられます。と、同時に、信心も、それから、おかげの面にも、それはもう、それこそ、素晴らしいおかげを受けておられます。ですから、ああいうおかげが受けられる信心。それには、私共は、どこが欠けておるのかという事をです、分からせて頂く意味合いに於いても、合楽だけで稽古をしておる人は、はぁ、あぁいう信心があったという様なものを、一つ、聞かせて頂きたい。また、あの、頂いて頂きたいと、こう思います。と、同時にです、合楽の信心も、また、須田先生にも、持って帰って貰いたいという願いを、私は持っております。
甘木の親先生が仰った事、須田先生が、さっき、話しておりましたですねぇ。親先生がその、ある記念祭の事の願いに、信者が出た時にですね、そういう風な気持ちで使えたらよいかと。どういうもこうもあるもんか、お前達の姿を見せるのが記念祭だ。お前達の信心を見せるのだから。神様、おかげで、こういう信心が分からせて頂いた。お前達の信心を見せるのじゃ。お互いの信心をです。ありもせんものを見せびらかすというのじゃなくてです。本当に、どこからか、溢れてくる様なもの。そういう様な信心を、私は、なるほど、合楽、合楽と、みんなが言うが、なるほど、合楽には、こういうもの、素晴らしいものがある事を、私は、分かって頂くおかげを頂いて頂きたい。同時に、もちろん、須田先生の御信心を頂きたいというのが、主でございますけれども、そういう願いを、私は持っております。ですから、二十七、八、土曜から日曜にかけての事でございますから、どうぞ、みなさん、万事、今から、お繰り合わせを願われて、どうぞ、一家を挙げて、夜の講演は、夜でございますから、それを聞かせて貰い、そして、分からんところは、なお、追及して、おそらくあの、質問を求められるであろうと思いますから、本当に、日頃分からない、親先生の話だけじゃ分からんところがある。どうも、疑問があるところもある。そういうものを考えておいて、そういう事を、あの、遠慮なくです、質問させて頂いて、分からせて頂きたいという風に思うておるのでございます。どうぞ。